みゃいころりんのお部屋

ご飯と一人旅、ときどきミニマリスト

買物依存症からミニマリストへ

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私は、買い物依存症でした。

毎月の給料がほとんどカード払いでもっていかれていました。

 

小さい時、あまり両親に構ってもらえなかった自分がいます。

母親に「絵本を読んでほしい」とお願いをしましたが、「自分で読みなさい」と返されました。父親と会話した記憶はありません。

いつも勉強しなさい、勉強しなさいと言われ、都合の悪いことをすると痛い思いをしました。

 

勉強を頑張れば愛される、言いつけを守れば愛される、そんな一心で努力をしました。

母のさせたい髪形にし、母の行ってほしい学校に進学し、母の希望を叶える会社に就職する。

でも要求を満たせば、新たな要求が来て、ゴールがないのです。

他人の目標を追わされ、私自身が侵略され、搾取され、自分自身というものが良く分からなくなっていました。そんな私のぽっかり空いた穴をうめるのは「モノ」達でした。

たくさんの素敵なモノ達に囲まれているうちは、他人に、空っぽな自身の内面を見抜かれずに済むと思っていました。

 また、常に緊張状態で暮らしていたせいで、何かをしていないと落ち着かない性格になりました。あまり多くの遊びを許されていなかった自分にできることは、大人になってから知った買い物でした。

我が家に新しいモノがくるととても嬉しくなります。ネット通販でのカード払いは最強の存在になれたような気がして、その興奮状態は例えようがありません。しかし、月末の請求書が来ると、途端に沈んだ気持ちになります。

 

モノにあふれた部屋、溜まらない貯金、空っぽの自分。

浪費するだけで、休まることのない生き方に、疲れ切っていました。

 

そんなときにふとネットで見た、佐々木典士さんの何もない部屋に衝撃を受けました。

本当に何もない部屋。彼は仙人のような表情で、モノがない方が幸せになれると言っていました。

 

他人のために持っているものを捨てて、自分が本当に必要としているものだけを持つ。

捨てなければ、得られないものがある。

 

最初は、半信半疑でした。でも幸せになりたかった。

とりあえず、安いという理由で買った、着てない服を捨てました。

次に、少し高かったけど、着てない服やバッグを捨てました。

 

そして、親に買ってもらった全く着ていない服やバッグを捨てました。

非常な高価なものだったので、正直、罪悪感はありました。

でもそこで、気づきました。

 

私は今まで、他人のために生きていた。他人の欲求を満たすために生きていた。

私の頭を支配しているのは、両親の存在であった。

もう二度と会わないと心に近い、その存在を忘れようとしていたのに、その支配は、モノになって私の部屋に堂々と居座っていた。そのモノ達にこめられた怨念にも似た執念に囚われていたと。

 

本来であれば、自分が欲しくないものを、自分の意思ではなく、他人の強制によって所持することは苦痛を感じるはずです。でも、それに我慢しすぎて、感覚が麻痺して、何が欲しいか、何が自分に必要か良く分からなくなってしまっていました。

ミニマリストは、何でもかんでも捨ててしまう人なのではなく、大事なものだけを持っている人。要らないものばかり抱えてしまって、本当に大事なものを持てていなかった自分に気づきました。

 

そして、両親にとっていい娘であろうすることを捨てました。

彼らの存在を心の奥から消してよいことにしました。

 

そう思い行動することで、苦しかったことは薄れ、自由が増えました。

 

そんな生活を始めてから、2年ほど経ち、買い物依存症はすっかり治りました。

むしろだいぶケチになりました。流行や他人の意見に流されず、自分軸で買い物ができるようになりました。

 

モノは物理的な観点から見れば、ある質量と体積をもった、ただの物質です。でも、精神的な観点から見ると、好きな人を振り向かせようと思って新調したとか、誰かが自分を喜ばせようと思って選んでくれたとか、色んな想いがつまっています。自分にとって必要ないと判断したならば、その想いだけを汲み取って、質量と体積の方はごみ箱へ入れていいし、その想いが重過ぎて苦しいときは、それも一緒に捨てていいんだと思えるようになりました。

 

私は、自称ミニマリストと名乗っていますが、田舎暮らし+こだわり自炊派のため、そんなにものは少なくないです。テレビも冷蔵庫も車もあります。それらは、自分にとって本当に必要なものですからね。